ミニレビュー:トクヴィルの民主主義と市民の徳性 ― 「結社」にみるムーアとフロネーシス、中庸、共感

はじめに

アレクシ・ド・トクヴィルは、その主著『アメリカの民主主義』において、19世紀アメリカ社会を観察し、民主主義が成功するための条件を鋭く分析しました。彼は法制度や地理的条件に加え、とりわけ人々の精神的な習慣や習俗、価値観を指す「ムーア(moeurs)」[注1]の重要性を強調しました。トクヴィルは、ムーアを構成する多様な要素の中でも、市民が自発的に形成し活動する「結社(association)」に強い関心を寄せています。本稿では、このムーアの中核とも言える「結社」の活動とその精神に焦点を当て、それが民主主義を支える上で、アリストテレスの実践知(フロネーシス)と中庸、東洋思想の(動的)中庸、そしてアダム・スミスの共感と公平な観察者の概念といかに深く結びついているかを考察します。

1. トクヴィルの問題意識

「結社」が紡ぐ民主主義の糸

トクヴィルがまず着目したのは、近代民主主義社会の大きな特徴である自由と平等の進展が、一方で人々を伝統的な共同体の絆から解き放ち、「個人主義」という名の孤立へと向かわせる危険性でした。人々が自身の私的な生活に閉じこもり、公共的な事柄への関心を失うとき、社会は活力を失い、個人の無力感が増大します。その結果、世論の画一化による「多数者の専制」を招いたり、あるいは逆に、人々が自由よりも安寧を求めて強大な中央集権的権力に自らを委ねてしまう「新しい形の専制」への道を開きかねないと、トクヴィルは警告しました。

この個人主義の弊害に対する最も強力な対抗策として、トクヴィルが19世紀アメリカ社会に見出したのが、驚くほど多様で活発な「結社」の存在でした。彼は、アメリカ人が政治的なものから、商業、産業、宗教、道徳、学術、娯楽に至るまで、あらゆる目的のために、絶えず結社を形成している様子を詳細に描写しています。

トクヴィルが特に重要視したのは、政党のような「政治結社」以上に、日常生活のあらゆる領域に浸透している「市民結社(civil association)」です。企業や組合といった実利的な結社、教会や慈善団体、学校建設や学術団体といった道徳的・知的な結社、さらには祝祭運営などのための一時的・地域的な結社まで、その形態は多岐にわたります。

これらの無数の結社が持つ意義は、トクヴィルにとって極めて大きいものでした。第一に、結社は孤立した個人に力を与え、連帯感と効力感を育みます。第二に、結社は民主主義の実践的な「学校」として機能します。メンバーは共通目標のために協力する習慣を学び、異なる意見と向き合い討議し合意形成を図る訓練を積み、公共精神を自然に涵養します。第三に、人々は結社活動を通じて、他者との協力や公共善への貢献が自身の長期的な幸福につながるという※※「正しく理解された自己利益」を学びます。そして第四に、多様な結社は国家と個人の間に位置する「中間団体」として、権力の集中を防ぎ、個人の自由と社会の多様性を守る※※防波堤となるのです。

このようにトクヴィルは、活発な結社活動とその精神こそが、個人主義の蔓延を抑え、市民的徳性を育み、民主主義の基盤を強固にするムーア[注1]の中核的要素であると結論づけました。

2. アリストテレス

結社活動という「実践の場」で磨かれるフロネーシスと中庸

トクヴィルがこれほどまでに重視した結社活動は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが市民に不可欠と考えた徳性、すなわち「フロネーシス(実践知)」と「中庸」が育まれる具体的な「実践の場」として捉えることができます。

フロネーシスとは、普遍的な理論ではなく、個別具体的な状況において「善く生きる」ために何をすべきかを判断する実践的な知恵です。結社の運営は、まさにこのフロネーシスが絶えず求められる場面の連続です。会議での議論の進行、イベントの企画・実行、会員間の対立の調停、限られたリソースの配分など、マニュアル通りにはいかない現実の問題に対し、状況を的確に読み、関係者の意見を聞き、現実的な解決策を見出す経験を通じて、市民は実践的な判断力を磨いていきます。

同様に、結社は「中庸」の徳を体得する場でもあります。異なる背景や利害を持つ人々が集う場では、自己の主張だけを押し通す(過剰)ことも、安易に迎合したり議論を避けたりする(不足)ことも、集団の健全な運営を妨げます。会議での活発な討議、対立意見の丁寧な調整、全員が納得できる妥協点の模索といったプロセスは、感情や思い込みに流されず、極端を避け、理性によって状況に応じた適切なバランス(中庸)を見出す訓練となります。トクヴィルが見たアメリカの市民は、こうした無数の結社への参加を通じて、民主主義社会の担い手として必須の、現実的でバランスの取れた判断力と態度を育んでいたと言えるでしょう。

3. 東洋思想

結社運営に見る「動的中庸」の実践

さらに、結社の運営というものは、静的な状態を保つことではなく、常に変化する内外の環境に適応していくダイナミックなプロセスです。メンバーの入れ替わり、社会情勢の変化に伴う活動目的の見直し、他の団体との連携や対立など、結社は常に変動する要素の中で、その存続と目的達成のために適切なバランスを取り続けなければなりません。

この側面は、儒教などで説かれる「(動的)中庸」や「時中」の考え方と深く響き合います。これは、単に固定的な中間点を目指すのではなく、変化する「時」と「場」に応じて、常にその時点での最適なあり方や調和点を見出そうとする柔軟な知恵です。例えば、社会のニーズの変化を敏感に捉えて活動内容を機敏に修正したり、新しいメンバーの多様な意見を積極的に取り入れて組織運営を改善したりするプロセスは、まさに動的中庸の実践に他なりません。結社という生きた組織の運営に関わる経験は、市民が変化にしなやかに対応し、社会全体の持続可能な調和に貢献するための重要な素養を育むのです。

4. アダム・スミス

結社という「交流の場」で育まれる共感と公平な観察者

結社がもたらすもう一つの重要な側面は、それが多様な人々が顔を合わせ、具体的な目標のために協力し合う「交流の場」であるという点です。このような場は、アダム・スミスが『道徳感情論』で道徳性の基盤として論じた「共感(Sympathy)」と「公平な観察者(Impartial Spectator)」の視点が育まれる上で、理想的な環境を提供します。

「共感」とは、他者の状況や感情を、想像力を通じて我がことのように感じ取る能力です。結社活動の中で、メンバーの個人的な事情に触れたり、共通の困難に共に立ち向かったり、活動の成果を分かち合ったりする経験を通じて、人々は他者の喜びや悲しみに対する感受性を自然に高め、相互理解の土台を築きます。特に、地域貢献や慈善活動など、他者のために行動する経験は、共感能力を直接的に育むでしょう。この共感こそが、トクヴィルが懸念した冷淡な個人主義を和らげ、社会的な絆や連帯感を生み出す源泉となります。

さらに、結社という集団の中で活動することは、自己を客観的に見る「公平な観察者」の視点を内面化する機会を与えます。会議での発言、共同作業での振る舞い、役割の遂行ぶりなどは、良くも悪くも他のメンバーからの評価にさらされます。また、集団のルールや目標に照らして、自分の行動が適切であったかを自ら省みることも求められます。こうした他者の視線や集団の規範を意識し、それに応えようとする経験を通じて、人々は自己中心的な判断や衝動的な行動を抑制し、社会的に承認されるような振る舞いを学んでいくのです。結社は、共感を通じて他者と繋がり、公平な観察者の視点を通じて自己を律する訓練の場として、極めて重要な役割を果たしていたと言えます。

結論

トクヴィルの洞察と現代アメリカへの問い

これまでの考察を総括すると、トクヴィルが『アメリカの民主主義』で描き出したムーア、とりわけその中核をなす「結社」の活動と精神は、民主主義社会を支える市民的徳性を育む具体的な「苗床」として、決定的な重要性を持っていることがわかります。結社という実践の場を通じて、市民はアリストテレス的な実践知(フロネーシス)と中庸、東洋的な(動的)中庸のバランス感覚、そしてスミス的な共感と公平な観察者の視点を、生きた経験の中で体得していきます。これらの徳性は、単に個人の内面にとどまらず、社会全体の協力、合意形成、そして変化への適応力を高め、民主主義の健全な機能を支えるのです。

しかし、トクヴィルが称賛した19世紀アメリカの姿と、現代のアメリカ社会、特にドナルド・トランプ大統領の登場以降に顕著になった状況とを比較すると、彼の洞察は現代への鋭い問いを投げかけてきます。トランプ現象に見られたポピュリズムの高まり、既存のエリート層への強い不信感、そして社会の深刻な分断は、トクヴィルがまさに懸念していた事態――平等への希求が個人を孤立させ、共通の基盤を失わせ、感情的な対立や「多数者の専制」、あるいは強力な指導者への期待に繋がりかねないという民主主義の負の力学――が先鋭化している現実を映し出しているかのようです。

トクヴィルが民主主義の安定に不可欠とした中間団体としての「結社」は、現代においてその姿を変え、影響力を低下させたり、あるいは特定の政治的・イデオロギー的グループに偏ることで、かつて期待された社会全体の統合機能を十分に果たせなくなっている可能性も指摘されます。また、現代の主要なコミュニケーション空間であるソーシャルメディアは、人々を瞬時に結びつける力を持つ反面、フィルターバブルやエコーチェンバー効果により、むしろ対立を煽り、共感や冷静な討議を困難にしている側面も顕著です。トクヴィルがムーアの基盤と見た宗教の役割も、社会を結束させる力と同時に、分断要因としての側面を強めているようにも見受けられます。

これらの状況は、トクヴィルが重視した諸要素間の健全なバランスが崩れつつある可能性を示唆しています。しかし、彼の分析は単なる悲観論に終わりません。むしろ、現代社会が直面する課題の根源を理解し、民主主義を再生するための視座を提供してくれます。問われているのは、グローバル化、デジタル化、社会の多様化といった現代の状況を踏まえつつ、人々がいかにして再び主体的に繋がり、相互理解を深め、公共的な事柄について共に考え、行動できるかです。

単に19世紀的な結社の形を懐古するのでなく、現代に適合した新しい形の「ムーア」、すなわち市民的徳性を育み、健全な公共空間を創り出すための社会的・文化的な基盤(それは地域コミュニティ活動かもしれないし、オンラインとオフラインを組み合わせた新しい市民活動かもしれません)をどのように再構築していくか。トクヴィルの問いかけは、私たち全てにとって、民主主義の未来を考える上で避けて通れない、重く、そして重要な課題であり続けていると言えるでしょう。


[注1] ムーア(仏: moeurs)について: ムーアは、トクヴィルが用いた重要な概念で、法律や制度といった外面的なものに対し、人々の心に根付いた習慣、価値観、道徳観念、精神的風土、世論、生活様式といった内面的な要素全般を指す言葉です。日本語では「習俗」「精神的習慣」「風習」「民情」などと訳されます。トクヴィルは、このムーアが法制度以上に重要であると考え、その具体例として、宗教心、家族のあり方、地方自治の精神、そして活発な「結社(association)」活動などを挙げました。本稿では、これらのムーアを構成する要素の中でも、特にトクヴィルがその役割を強調した「結社」の活動と、それが育む精神に焦点を当てて論じています。