私のキャリア

越境とアンラーニング、そして公平な観察者の視点

私のキャリアを一言で表すなら、「〇〇一筋」という言葉とは無縁の道のりでした。アサヒビール(現アサヒグループホールディングス)で過ごした年月の中で、私は研究開発(R&D)から始まり、生産現場への関与、マーケティング、そしてホールディングスと、実に様々な部門を渡り歩いてきました。この多様な経験こそが、今の私の視点や考え方の基礎を形作っています。

研究所に配属されたものの、入社後半年間は毎日工場に詰めて生産に関与し、製品の分析や格付け判定を行っていました。まさに生産の最前線で、当事者として品質への徹底的なこだわりとその厳しさを肌で感じた経験は、私の仕事観の原点となっています。その後も、私は単に部署を異動するだけでなく、常に「越境」を意識してきました。それぞれの立場で、既存の枠組みや部門間の壁に意識的に挑んできたつもりです。開発部門にいた時は「研究所の研究テーマに踏み込むぞ」と考え、研究所に戻れば今度は「開発部門と連携して新しいやり方を導入するぞ」とコンカレントエンジニアリングのような動きを推進しました。こうした行動は、時に軋轢を生むこともありましたが、異なる立場や論理を理解し、組織全体で新しい価値を生み出すためには不可欠なプロセスだったと確信しています。

それぞれの現場での経験は、私にとって貴重な学びの連続であり、時には痛切な反省の機会でもありました。

生産現場への関与から学んだこと

品質管理の重要性は当然のことながら、「品質だけではダメだ、人間関係なんだ」という上司の言葉が深く心に刺さりました。どんなに良いものを作っても、それに関わる人々の思いや協力なしには成り立たないことを、当事者として痛感しました。

研究開発の現場では

若い頃に上司から言われた「バカなふり」の重要性を、後年コーチングを学ぶ中で深く理解しました。相手の考えを引き出し、自由な発想を促す上で、いかに有効な姿勢であるかを実感したのです。

マーケティング部門では

研究所での経験を活かし、「ロジカルに仕事を進めたい」という思いで臨みました。当時はそれが正しいと信じて疑いませんでしたが、データと論理に基づいた提案で相手を説得しようとするあまり、当時の役員から「君の理屈はわかるが、私の直感は違うと言っている。それでは人は動かない」と本質を突かれた経験は、大きな反省点として今も心に残っています。ロジックは重要ですが、それだけでは不十分であり、人の感情や直感にも寄り添う必要性を学びました。また、当時の社長である福地さんが「うちは朝令暮改じゃない、朝令“朝改”だ」とおっしゃるほどのスピード感で変化に対応していく現場も経験し、意思決定のダイナミズムを肌で感じました。

これらの経験の中でも、特に忘れられないのが「アサヒスーパードライ 生ジョッキ缶」の開発と発売に携わったことです。イノベーションには予期せぬ困難がつきものだとは理解していましたが、まさにそれを体現したプロジェクトでした。経営学者の伊丹敬之さんが言う「神の隠す手」、つまり「想定外の大きな障害」と「それを乗り越える人間の力」の両方が隠されているという話がありますが、生ジョッキ缶はまさにそのものでした。

開発段階から様々な困難がありましたが、特に発売当初に起きた「泡が自然に吹きこぼれてしまう」という問題は深刻でした。社内外から多くの心配や、時には反対の声も上がりました。正直、「こんなもの世に出して大丈夫か?」という不安は常にありました。しかし、私たちはこの商品の持つ革新性を信じ、様々な工夫と関係者の努力で、世に送り出す決断をしました。

結果として、この「泡問題」は予期せぬ形でプラスに働いた側面があります。SNSなどで大きな話題となり、結果的に商品の認知度を飛躍的に高め、大ヒットに繋がったのです。もちろん、問題解決のために多大な努力がありましたが、あの時、困難を理由に発売を諦めていたら、この成功はなかったでしょう。「神様は、時にそういう形で助けてくれることもあるんだな」と、困難の中にこそチャンスが潜んでいることを実感した経験でした。

そして、キャリアの後半、最後の4年間は、ホールディングスに移り、事業の直接的な責任から離れたポジションに就いたことも、私にとって大きな転機となりました。それまでは各部門の当事者として物事を捉えることが多かったのですが、この時期には、アダム・スミスが言う「心の中の公平な観察者(冷静な第三者)」のような視点で、組織や事業の課題、そして自分自身の思考や行動をも冷静に見つめることができるようになったのです。この客観的な視点と、それまでの多様な現場での当事者としての経験の両方が組み合わさったことで、「アンラーニング(学びほぐし)」、すなわち過去の経験や成功体験に固執せず、状況に応じて柔軟に考え方を変えることの重要性を、腹の底から理解することができました。

専門分野に安住せず常に「越境」し続けること、過去の経験に固執せず学びほぐす「アンラーニング」を恐れないこと、ロジックと同時に「直感」や「内発的な思い」を信じること、そして「公平な観察者」の視点を持つこと。これらの、アサヒでの全ての経験を通じて培われた視点や価値観が、現在の私が行っているエグゼクティブコーチングや組織開発コンサルティング、リベラルアーツの普及といった活動の根幹となっています。それぞれの現場で当事者として感じた熱量と、そこから一歩引いて全体を俯瞰する冷静な視点の両方を大切にしながら、これからも人と組織の可能性を引き出すお手伝いをしていきたいと考えています。