
はじめに
前回は、フッサールの現象学を通じて、変化の激しい時代にリーダーが持つべき「本質を見抜く力(本質直感)」と、それを引き出すエグゼクティブコーチングの役割について考察しました。今回は、近代経済学の父として知られるアダム・スミスの主著であり、彼自身が『国富論』以上に出版後の改訂に情熱を注いだと言われる『道徳感情論』を取り上げます。この古典を通じて、現代のリーダーシップとエグゼクティブコーチングに不可欠な「共感」の本質と、それを支える内なる視点の重要性について掘り下げていきましょう。
リベラルアーツとしての『道徳感情論』
共感を深く理解する
なぜ、経済学者のイメージが強いスミスの『道徳感情論』が、現代のエグゼクティブコーチングやリーダー育成において重要なのでしょうか。それは、この著作が人間社会の根幹をなす「共感(sympathy)」のメカニズムを深く洞察しているからです。リベラルアーツとして哲学や倫理学に触れることは、人間理解を深め、経営層を支援する専門職であるコーチのスキルセットを豊かにします。『道徳感情論』は、他者との関わりの中で私たちがどのように感じ、判断し、行動するのか、その基盤となる道徳感情の源泉を探る上で、非常に示唆に富むテキストなのです。
スミスの洞察
「ウィークマン」と「ストロングマン」、そして「公平な観察者」
スミスは、人間が他者の状況や感情に自然と寄り添い、想像力を働かせて同じような感情を追体験する能力、すなわち「共感」が、社会秩序や道徳の基礎にあると考えました。しかし、スミスはこの共感能力を手放しで称賛したわけではありません。
彼は、単に周囲の意見や賞賛、非難に流され、世間の評価を絶対的なものとして行動する人間を「ウィークマン(弱い人)」と呼びました。彼らの共感は、他者の感情に引きずられる受動的なものに留まります。
一方で、真に賞賛に値する人間、すなわち「ストロングマン(賢慮の人、強い人)」は、他者の感情に共感しつつも、それだけでは判断しません。彼らは、自分自身の心の中に「公平な観察者(impartial spectator)」という、いわば“内なる第三者”を住まわせています。この公平な観察者は、特定の利害関係にとらわれず、状況や行為の適切さ(propriety)を冷静に判断する、理想的な視座です。ストロングマンは、この内なる観察者の判断(是認・否認)に照らして自らの感情や行動を律し、それに基づいて他者に共感するのです。
現代社会と「公平な観察者」の重要性
スミスが生きた18世紀に比べ、現代社会は比較にならないほど複雑化し、私たちを取り巻く情報環境も激変しました。このような時代だからこそ、「公平な観察者」を自らの内に確立し、その声に耳を傾けることの重要性が増していると言えます。その理由はいくつか考えられます。
情報過多と承認欲求の罠
SNSの普及により、私たちは常に他者の視線や評価に晒されやすくなりました。「いいね!」の数やフォロワー数といった外部からの承認が、自己肯定感の拠り所となりがちです。このような環境では、周囲の期待や流行に合わせた言動をとる「ウィークマン」的な共感が蔓延しやすく、自分自身の内なる声、すなわち「公平な観察者」の判断が聞こえにくくなります。外部のノイズに惑わされず、自らの価値基準で物事を判断する力が、これまで以上に求められています。これは特に、組織内外からの注目度が高いエグゼクティブにとって重要な課題です。
複雑化する倫理的ジレンマ
グローバル化やテクノロジーの進化は、多様な価値観の衝突や、従来の倫理観では判断が難しい新たな問題を生み出しています。ビジネスシーンにおいても、短期的な利益と長期的な持続可能性、効率性と倫理、個人の権利と組織の目標など、単純な二元論では割り切れないジレンマに直面する機会が増えました。経営判断を担うエグゼクティブは、このような状況で適切な意思決定を行うために、特定の立場や感情に偏らず、状況を俯瞰し、多角的な視点から本質を見極めようとする「公平な観察者」の視点が不可欠です。
変化するリーダーシップ像
かつてのトップダウン型のリーダーシップから、多様なメンバーの意見を引き出し、共感を基盤とした協働を促進するサーバント・リーダーシップやオーセンティック・リーダーシップの重要性が高まっています。真の共感とは、相手の感情に寄り添うだけでなく、その状況や背景を理解し、「公平な観察者」の視点から相手の言動の適切さをも判断できることです。リーダー、特にエグゼクティブがこの内なる観察者を頼りにすることで、メンバーへの適切なフィードバックや、感情に流されない冷静な判断、そして組織全体の倫理観の向上が期待できます。
心理的安全性の基盤として
建設的な対話や率直なフィードバックが奨励される「心理的安全性」の高い組織文化を醸成するためにも、「公平な観察者」の存在は重要です。メンバー一人ひとりが、他者の意見や批判に感情的に反応するのではなく、一旦立ち止まって「公平な観察者」の視点を取り入れることで、より客観的で冷静な受け止め方が可能になります。特に、組織文化に大きな影響を与えるエグゼクティブ自身がこの姿勢を示すことが、健全な議論を通じてより良い結論を導き出す土壌を育みます。
エグゼクティブコーチングが育む「公平な観察者」
では、どうすれば私たちは内なる「公平な観察者」を育て、その声をより明確に聞くことができるのでしょうか。ここでエグゼクティブコーチングが重要な役割を果たします。コーチはエグゼクティブに対し、以下のような支援を通じて、「公平な観察者」の視点を引き出し、強化する手助けをします。
内省の深化
コーチからの問いかけは、クライアントであるエグゼクティブが自身の思考や感情、行動パターンを客観的に見つめ直す機会を提供します。「なぜそう感じたのか?」「別の視点はないか?」「経営者として、あるいはリーダーとして本当に大切にしたいことは何か?」といった問いは、「公平な観察者」を意識させ、内省を深めます。
意思決定の精度向上
重要な経営判断や戦略的意思決定に際し、コーチは様々な選択肢のメリット・デメリット、短期・長期的な影響、ステークホルダーへの配慮などを多角的に検討するよう促します。これにより、感情や個人的なバイアス、短期的なプレッシャーに流されず、「公平な観察者」の冷静な判断に基づいた質の高い意思決定が可能になります。
内なる基準の洗練
コーチとの守秘義務で保護された対話を通じて、エグゼクティブは自身の価値観やリーダーシップ哲学、倫理観といった「内なる基準」を明確化し、洗練させていきます。これが「公平な観察者」の判断の拠り所となります。
真の共感力の育成
従業員や他の役員、株主など、様々なステークホルダーの視点や感情を想像するだけでなく、それぞれの状況における適切さをも考慮するよう促すことで、表面的ではない、より深く、組織を前進させる建設的な共感力を育みます。
おわりに
アダム・スミスの『道徳感情論』は、250年以上前に書かれた古典でありながら、現代を生きる私たち、特に組織や社会を導くエグゼクティブにとって、極めて重要な示唆を与えてくれます。外部の評価や市場の喧騒に惑わされることなく、自らの内なる「公平な観察者」の声に耳を澄まし、それに導かれた判断と共感に基づいて行動する。そのような自律的で思慮深いリーダーこそ、不確実で複雑な時代を切り拓くことができるのではないでしょうか。
エグゼクティブコーチングは、クライアントであるリーダーがこの内なる羅針盤である「公平な観察者」を発見し、その精度を高めていくプロセスを力強く支援します。リベラルアーツの知恵をエグゼクティブコーチングに活かすことで、私たちはリーダー一人ひとりの内なる成長と、より良い組織、ひいてはより良い社会の実現に貢献できると信じています。